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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

小説 春の空 2 

 五月の風は緑で、六月の空は雨雲が垂れこめて、人はその時その時の時間の経過のなかで最善に生きてきた…。

 春の空 2

 省三は六十歳を期に今までの総てを捨てた。
 未練はなかった、むしろすがすがしさを感じた。
 その時、友達に出した手紙を個々に載せようと思う。

わが友よ
毎年年賀状を頂き息災を知らせてくれる事に感謝しています。
お元気でお暮らしですか…。
私は前にも書きましたが、六十歳にして劇作家も演出家も、書きものをすることも辞めました。自由に生きたかったという理由でした。それまでに戯曲は四百程書き、小説も二百ほど書きました。五十歳代の十年間が一番忙しく、文化庁の仕事で世界に日本の演劇をと言う趣旨から「財団法人舞台芸術財団演劇人会議」を立ち上げるメンバーとなり早稲田、銀座の会議に月に二から三回出向いていました。私には持病の自律神経失調症があり東京駅の階段が上がれず這い這いして駆けつけていました。私の人生はその病との戦いでした。
そんな中で篠田正浩監督と昵懇になり監督の引退までの四作を手伝いました。岩下志麻さんをはじめ沢山の俳優さんたちと仕事をしました。映画創りは私の夢でしたのでその実現はとてもうれしく楽しい時間を過ごす事が出来ました。
その間、生活保護の子たち、母子家庭の子たち、いじめられっ子達、不登校の子たち五十人と十年間、倉敷芸文館ホールで公演を続けました。今から考えれば良くやれたものだと思います。
それに毎日新聞にコラムを三年間連載、小説も他紙に連載と言う、良く体がもったものだと思います。それを終わりにして、何もかも捨てて遊び人になったのです。
これまで本は出していましたが、七十歳の古希に「倉子城草紙」を区切りとして出版しました。
岡山県人名鑑(山陽新聞社刊)、中国年鑑人名録(中国新聞社刊)、日本紳士録に名を連ねていますが、それは私の望むものではないのです。名利名聞など私には似つかわしくないという、私は遊び人が向いている事を実感しています。
また、文化庁の要請で早稲田大学が、私が書いて公演したものを保存すると言ってきたのです。私が書いた作品目録は「日本演劇協議会」がこれも文化庁の支援で全国の劇作家の人達と一緒に全十巻におさめられています。
文化庁のパーティー、世界の演劇人達との交流にはなんどとなく病をひきずりながら出ました。
若い頃、脚本賞、小説入選をいただいています。高校時代は三年間で三百日もアルバイトに明け暮れました。勉強などしていませんでしたから大変でした。
私の道のりです。病と戦いながら家人に支えられた人生のひとこまです。
みなさんと違った道を歩いて来ました。好きな事をして生きてきました。子供のころ抱いていた夢を実現するために時間を費やしました。
端さんと私は小中高と一緒でした。今その当時の事を思い出しています。それぞれ道は違って生きてきましたが、素晴らしい人生を残していると思っています。
色々とあったその思い出に浸りながら友の幸せを願っている日々です。
沢山の人に温かい声をかけていただき、教えられました。
南高を終えて学校からの就職は断り、小さな玩具問屋に勤めたのは比較的時間が自由になる事でした。務めながら東京や大阪の大学を掛け持ちし通信課程で勉強をしました。それを終えて東京に出て浅草のストリップ小屋で演劇の基礎をならいました。新橋演舞場にも通い舞台の素晴らしさに感動しながら北条秀司先生や池波正太郎先生に人の道とは、人生とはなど教わりました。岡山で仕事をしながら辞めたり出戻ったりで、その間に上京し上阪しながら沢山の諸先輩から色々と教えていただき、手を差し伸べられたのです。東京も、大阪も私の肌には合いませんでした。そのころ家人とめぐり合い家人の故郷である倉敷水島で生活するようになりました。そのころの水島は空が燃えていました。年寄り、幼子は喘息で亡くなっていました。公害闘争に明け暮れました。警察とやくざに追いかれられました。
そのころから岡山県下の物書き、絵描き、新聞記者が家人のサテンに集まるようになっていました。持ち込まれた沢山の原稿を読んで雑誌を出したのです。全国的にも評価される雑誌になっていました。
倉敷の青年に演劇を教え、全国青年大会岡山県予選で優勝し岡山県の代表として全国大会へ、私の書いた作品を目黒公会堂で公演、沢山の賞をいただきました。その年を皮切りに四回も行きました。小説も書いていましたが、その人達に倉敷で公演する台本を次々と書く事になりました。それから「劇団滑稽座」を作り倉敷市芸文館ホールで劇作演出と関わったという事になりました。六十歳まで続けました。
二回目の同窓会には篠田監督の作品のロケに参加していて不参加になりました。
芸能界の醜さにも辟易するところは多かったのです。今はそんなしがらみから解放されて精神を自由にして暮らしています。
愚かゆえに楽しい事が一杯ありました。
私は湯浅氏、広瀬氏にも書いた事があります。同窓会で集まる事にはもの申す事はありませんが、そこに集う事が出来る健康と幸せに感謝して、ゴルフなどと言う事より、少しでも助けを待っている人に寄付すべきだと言ったのです。売名行為ではなく、今ある事を喜びその人たちに何かをするその事の大切さを説いたのですが、なしのつぶてでした。成功し、金持ちになる事は人より苦労しなくては成り立ちません。が、それは多くの人達が働き助けてくれたのだと言う事を忘れてはならないと言うのが私の考えです。
今日本は大きな岐路に立っています。それゆえにそれが大切であろうと思うのです。
今、私は私の生きてきた道のりを考えながら整理をしています。私の恩師たちは鬼籍に入った人が多いいのです。その人たちに引っ張られて今があります。出会いに感謝しています。
前の同窓会の折り、私に君はそんなに国語の勉強が出来たかな、と恩師と皆が言う人が言い不思議がられたのです。私に恩師は一人として小中高時代にはいません。世の中に出て沢山の日本を代表する人達にかわいがってもらいました。幸運でした。その人たちから頂いたすべて心温かい心情は演劇を通して、また人の付き合いのなかで次に繋げました。
今、時間を作り私の「自分史」を書いています。原稿用紙5000枚のところ2500枚まで書きましたが、これからが50代に入る所です。
あの頃独特のキャラクター持っていました。明るくて思いやりがあり素晴らしいものを持っていました。あこがれていました。
端さんにはなれませんでした。
あの頃のみんなはそれぞれの人生を歩いた事でしょう。
今日書いていて端さんの事が思い出されてついつい書いてしまいました。
時間をありがとうございました。
お元気で、麗老に生きてください。
昔の仲間の人達の情報があれば教えてください。 


私の拙作「倉子城草紙」を同封させていただきます。お暇な折にページをめくっていただければこれにこした喜びはありません。

 この様に書いて自分に切りを着けたかったのかもしれない。
 新しい気持ちで別の生き方を探す事を思ったのかもしれない。

 省三は過去を捨てて、遊び人になった。あの原稿を書いて稿料を貰っている生活から、その苦しさから解放される事を節に願っていた自分いる事を知った。もう一度自分を自分の手で解き放ち自由を求めていたことが分かった。
 名誉とか名前など関係なく、約束も拘束もない世界に生きようとしていた。
「この娑婆には悲しいことや辛いことが一杯にある、だが、忘れるこった。日が暮れて朝が来れば…」
 長谷川伸の「関の弥太ッペ」の名セリフを心の友として生きたが、明日何をするかを心において生きる事は忘れないようにしようと思った。
 春、省三の誕生日には六十年間忘れることなく桜が咲いてくれた。開花の知らせが届いていた。省三がその桜を見たのは、篠田正浩監督の「写楽」の撮影現場だった。桜を見ることなく生活をしていたから、そのはかなさをめでる心を持っていなかったから、馴染めなかった。ロケの現場には五月なのに山桜が咲き誇り花弁が風に玩ばれていたのをドキドキしながら眺めていたのだった。その舞う花弁の姿はまるで天からの献花のように感じた。桜に無縁に過ごした日々をさみしくかみしめたものだった。桜と言えば西行法師、その西行を書いた時には吉野を思いながら書いていた事を思い出していた。
 忘れていた、省三は嘆息した。時が過ぎてもったいないと思った。生きる上でその余裕のなかったことに
茫然とした。
だが、今日からはこれからは、総ての事から眼をそらすまいと心に決めた。
生きると言う事は何時も道の領域を手探りで歩くものだが、これからひとつずつ手探りで進むしかないと覚悟を決めた。

 すべてを捨てたと言っても生活には変わりがなかった。
 自律神経失調症は春より少し楽になっていた。そんな中、茫然とした日々を送っていた。まだ何をするのかを決めていなかったこともある。ただすべてから解放され自由に生きるその希有だけが優先していた。創作する事、小説を書き、戯曲を書き連ねた日々から逃避をこころみただけだった。それからの事はその場で考えようとした。
 パソコンを独学で学びその前に一日中座っていた。パソコンのワードの前には長い間ワードディスクを使い書きものをしていたから書きものにいては支障はなかった。
 何日か日がすぎると無性に何かを書くためにキーボードを叩いていた。こころに思っている事を書き連ねていた。
 随筆

       風の路
       


今田  東
公害の町で

 風は雲の働きで起こるように、波が風によって起こるように、人間は自らの意志をもって起こし行動する。そのことを知ったのはたくさんの時が過ぎてからだ。
 
 この町にきてからもう四十年になろうとしている。結婚してから家人のふるさとへ来たのだ。家人は交通事故の後遺症で雨の降る前は額に十円玉の様な赤い斑点が出来て頭痛がした。それを心配した義父母が隣に土地を用意しそこに家を建てろと言った。家人の慰謝料で家を建て一部を喫茶店にした。県道沿いのその喫茶店は四十年が過ぎたいまも続いている。お好み焼き、画廊、ラーメン、トンカツ、カラオケ、と喫茶をやりながら出し物を変えて続いている。今ではコミュニティハウスとしてお年寄りの憩いの場となっている。
 この町に来た頃は南の海に面したところにあるコンビナートの空は何十本もの高い煙突から五十メートル以上の炎が真っ赤に吹き上がり夜を昼間に変えていた。そこでは夜でも明かりがなくても新聞が読めたという。そんな環境を地元の人が文句も言わず黙っていたのは賠償金を貰っていたからだった。だが、少し離れた我が家からは南の空が燃えているその明かりが窓を染めて眠られない日が続くのだ。まるで火事場の隣にいる様な錯覚に陥るのだった。
 家人の実家は農業を営み、葡萄にい草に麦に米を栽培していた。コンビナートの煤煙に最初にやられたのはい草であった。煤煙が朝露となってい草を覆い先枯れをもたらした。人間を喘息へ導くほどの公害なのだからい草など一発でやられた。その頃、工場に隣接していた呼松町では梅に桃が育たなくなったという被害が出た。煤煙を海風が運んだのだ。呼松漁港は漁業権を売り渡した港であった。魚を捕って食べてもいいが商いをしないと言うことなのだ。だから背後の山に植える桃や梅の栽培に力を注いでいた時期であった。呼松の人たちを煤煙が襲い生活の方途を断ち切ったのだ。漁業権を売った経緯は漁をした魚が油臭くて売れないと岡山県庁の玄関にばらまき放置すると言う事件を起こした。工場の排水が原因だった。呼松の漁民は工場に筵旗を掲げて押し掛けた。そのような事件の後で県が仲裁に入り、漁業権放棄を条件に補償金をもらい和解するという条件を呼松漁民は飲み折れたのだった。そんな後、今度は煤煙で果実の栽培が出来なくなると言う事態になっても今度は漁民の多くはコンビナートの工場に就職していたので反対をしても工場へ押し掛けると言うことはなかった
 家人の実家は工場に葡萄畑を売った。工場に囲まれては出来いと判断したのだった。い草を植えていた県道沿いの土地に借家を建てた。工場の下請けが事務所として借りた。工場に勤める人とは別に下請けの人たちが借家を借りてくれたから農家は農地をつぶしてこぞって借家を建てた。
 その頃から公害という言葉が使われるようになっていた。公害喘息で幼い子や年寄りが亡くなっていた。
 二年前、二男が結婚し同居するために書斎を改造したおり蔵書の三分の二を処分し、公害の資料もその中に紛れ込んでいたのだ。しまったと思ったが後の祭りであった。公害のことを忘れたいという潜在的な意識があって自然に処分の方へ回したのかも知れない。その資料にはあの頃何があったかという歴史を書き留めていたものであった。公害闘争をしていた経緯もその結果も克明に記述していた。だからここに正確には書くことが出来ないが、記憶の中に沈殿しているその懲りを浮き立たせて書くことしかできないのだ。
 その頃、公害闘争は地元の人たちは殆ど参加していなかった。全国の市民運動家が何カ所かに事務所を置いて反対運動をしていた。つまり、全国の運動家が水島に入って連帯していたと言うことだ。共産党系の協同病院の医師が調査をしていた位だった。
 水島の家庭では洗濯物がくすんで乾くという現象が現れていた。空から鳥が消えていた。川の魚が遡上しなくなっていた。
 家人の喫茶店の前の山は煤煙で見えなくなっていた。百メートル先の農家も昼間から姿を消すと言うことがしばしばであった。
 家人の店は各新聞記者のたまり場となり情報のやりとりをしていた。水島に公害専門の記者を常住させる新聞社も出てきていた。
 水島には戦前水島飛行機製作所がありそこを中心にして海を埋め立て農地を買い取りコンビナートが作られたのだ。戦後、水島飛行機製作所の資材課長が物資の横流しをし、それを売りさばく商人がおり、土地を買いあさる不動産業者がおり、それらの人たちは莫大な資産を築いていた。町医者だったものが大病院の院長になり増築を重ねて発展したのは、工場の災害で被った怪我人を労災扱いとしないで自己過失として処理し、会社から金を貰うという医者の倫理感など投げ捨てて儲けに走ったのだった。
 今でもその人たちの流れがこの町を握っているのだ。
 このようなものを書く機会があるとわかっていたら資料を過失でなくするのではなかったと悔やまれるのだ。「公害講座」「地域闘争」被害の現実を書いた報告書、農地を失った農民の悲痛な叫び、漁場をなくした漁民に嘆き、公害喘息で亡くなった女子中学生の告発文、公害裁判の参考資料、森永ヒ素ミルクの被害者救済の人たちとの連帯、成田、四日市、水俣、富山イタイイタイ病の被害者、阿賀野川第二水俣病被害者の人たち、その資料は完全に喪失している現在、それを元に書き表すことの出来ないことを嘆くのだ。
「電話ですよ。杉原さん」
 そういって起こされて電話に出ると、
「どこか悪いのかな」といつもの声がした。起きると痰が詰まっていて咳き込むのだった。それを聞いて言ったのだった。
「いいえ、いつものことです公害喘息です」
 こんなに早く何かあったのかと心配していると、
「俳句を投稿して審査が通り一首三万円取られたよ」
 彼は最近長いものは書かずに俳句や和歌を作っていることは知っていた。俳句の世界と言えば俳句を道楽で作る人から法外な掲載料を取ると言うことはきいて知っていたから、
「それぐらいだったら安いのではないかな」と答えた。
 彼は端正な顔立ちをしていて若い頃は多くの女性を泣かしていた。歳を取った今でもその名残はあり若かった頃の美貌は目鼻立ちに残っていて老成された好々爺になっていた。裕福な農家の生まれで田地をたくさん所有し、バイパスが通ったおり買い上げられて数億の金が舞い込んでいた。その金で農地を買ったところが倉敷市の青果市場や漁業市場の移転で候補地になって取られて数億の金が転がり込んでいた。ある人のところには集まるものらしいと彼の幸運を祝って見ても、それはない恨み節の様なものだった。若い頃から文学に傾注していたが、物書きに金が入ると作品を書き枚数を数える事より入る金を数えるという生き方になり文学者としての彼は不幸な立場になっていた。そんな彼にはもう長いものは書けまいと思っていた矢先、和歌と俳句、二、三枚の随筆を書いていると彼から言われた。やはりそうなったかと思いが当たったことに納得をしたが寂しさは隠せなかった。彼もそれは本意ではあるまいと思うのだが物書きほど経済状態が立場を危うくするものはないのだ。つまり金が入ると物書きは書けなくなるのだった。それは書く必然が見あたらなくなるということなのだ。
「そんなもんか・・・」
 受話器の向こうでうなる声がした。色々と若い頃から助けて貰っている彼なのだが、金が入った時点で一念発起してその金で救済事業でもすればまだ書く材料に不自由はしなかったのにと思うが彼はしなかった。
 同じようにお世話になった土倉さんは身代を演劇に賭け財産を浪費し続けていた。正反対の二人であった。彼はいつも細い体に背広をきちんと着ていたが、それは育ちのせいかも知れなかった。岡山藩の家老の末裔という家柄は自由奔放に生きる、思う様に生きるという様を見せていた。それはまた杉原さんとは異なった生き方であった。
「俳人や歌詠みは今の世の中では食べられませんから、選考をして雑誌に載せて稼ぐしかないのですよ。つまり道楽でやってる人はスポンサーと言うことになります」
 冷静に言って、何もわかっていないことにあほらしさを感じこれだから金持ちはたかられる存在なのだと言い返そうとしたがやめた。
「またいくわ」と言って電話を切った。
 十二時を過ぎなくては起きないことにしているのだが、時折電話で起こされると不機嫌になる。
 窓の外を眺めるとうっとうしい空模様だった。こんな日はコンビナートの上空はどんより曇るのだ。風の強い日と、曇り空の日は煙を多く出すのだ。そういえばにおいを持った空気が鼻孔をくすぐっていた。公害認定患者になって鼻が効かなくなったという人が多かったがそんなことはなく人よりにおいをかぎ分けることが出来た。痰が絡み咳き込むのは朝方だった。
 公害監視センターの屋上には光化学スモッグが発令されると赤いアドバルンが上がった。アドバルンが上がる前に臭いと煙で関知していた。化学薬品の様な臭いが静かに満ちてくるのがわかった。百メートル前の家が見えなくなるからだ。その赤いアドバルンがいつの頃からか上がらなくなり監視センターが役目を終えたのを記憶していないのだった。たぶんコンビナートの工場が煙突を高くして煤煙を拡散しだしてからだろう。煤煙防止装置のせいではなく煤煙を遠くへとばしただけだったのだ。何十キロ先の金甲山の麓で喘息患者が多く出たのがいい例だった。今はどうか、中国の公害に対して最新の設備を提供すると言うような新聞記事を見るが日本だって今の中国と同じことをしていたのだ。地元から公害患者は少なくなったが何十キロも離れたところでどうして公害喘息がと言う問題が起こったのだ。工場排水だって浄化して魚を泳がせこんなに綺麗な水を海に流していますとパフォーマンスをして見せてもその水は高梁川の水を引いていたと言うお粗末な細工がしてあったりした。排水口は海に隠れて見えないところにあった。あの頃排水溝にセメントを流し込むと息巻いていた人が多くいたのだが声だけで終わっていた。水島で公害闘争をしだしてよく労働会館で集会を持ったがいつも公安が見守ってくれた。全国から活動家達が来ていたのだ。家人の店は終日いろいろと車を変えて見張る警察の姿があった。
「大物は違うな、護衛がつい取るやないかい」
 読売新聞の記者の桝野さんが大仰な身ぶり手振りを見せて言った。彼は水島公害の記事専属でついていて近くに下宿していた。何もない日は殆ど家人の喫茶店にいて珈琲を飲み岩波文庫を読んでいた。
「出世払いや」と言って代金は払わなかった。喫茶というところは十杯ずつ珈琲をたてるが時間が過ぎると捨てる。捨てたと思えばいいのよと家人は笑っていた。
「出世なん考えないでいい記事を書いてくださいね」と家人は言葉を投げて珈琲をたてていた。
 桝野さんは金沢の大聖寺の生まれで関大を出て読売新聞の記者になっていた。縄文顔の小太りな体躯で小股の足早に歩く人であった。歩く姿が荒い熊に似ていた。
「新聞記者と警察とやくざに所場代払っていると思えば安いものだ。多少しゃくにさわるがな」
 とおどけて見せたものだ。少しの間だが記者をしていたので記者の思い上がりを十分知っていた。
「記事で人を殺すなよ。ペンは剣よりも強だから」そう先輩から言われたのを思い出していた。桝野さんはどこで調べたのか新聞記者だったことを知っていた。誰にも喋ったことはなかったのたのだが。
 今、桝野さんは大阪読売新聞の取締重役になっている。
 今年の気候は経験をしたことのない不順なものだ。あまり空など眺めたことはないが今年は良く眺めた。見たことのない雲が一面を覆っていた。子供の頃眺めた雲と違っていた。冷たい雨を抱えてたじろぐ雨雲、晴れようか曇ろうかと不惑する雲、太陽を拒絶しているように見える雲、それらの雲が曖昧な天気を生み垂れ下がっていた。天気予報はあまり当たらなかった。刻々と変化する天候に予報を変えるのが追いつかないくらいだった。明日は晴れるという予報で行動を決めるが雨になったりした。櫻が咲く頃までは冬から春に向かっていたのだがそれからが暖かかったり寒かったり、まるで春から冬へ戻ったのかと思える日も多かった。三寒四温と言う言葉は死語になろうとしていた。櫻の花に雪が積もっているニュースが見られた。東京では一日の温度差が十七度も違う日があった。人間の精神も体もその気候について行こうとすると疲れるだろうと思った。プロ野球も五度の寒い中行われふるえながらプレーをしていた。
 地球温暖化と言われて久しいが、むしろ寒冷化へ進んでいるのではないかと思われるのだ。幼い頃と比べたら確かに暖かい。川に氷は張らないし水たまりにも張っているのを最近見たことがない。確かに冬の気温は暖かいと感じるが、夏はもっと暑かったように思う。今と昔は生活環境も違うから比べられないかも知れないが。風通しのいい家に住んでいたから寒暖は直に皮膚に感じたのだろうが、その頃の気候は今のようではなかったと思うのだ。洗濯物がすぐに凍り、夕立でずぶ濡れになった記憶がある。今ではそんな昔を懐かしむ心はあるが。
昔は良かったという言葉が出るようになったら歳を取った証拠であると言うが。懐かしいと言うことと良かったと言うことは少しニュアンスが異なる。あの頃のことはひどいものだった。大気汚染の中で生活をしていた。人間の生きる場所ではなかった。臭いのついた空気と色のついた風がながれていた。空を飛ぶ鳥の姿は見られなかった。川には魚が一匹も泳いでなかった。濃度の数値PPMではなく鳥を返せ魚を返せと叫んだ。すんだ空を、臭いのない空気を返せと叫んだ。
「電話代が払えないんです。この本をいくらでもいいから買ってもらえませんか」と今のNPOのような組織の公害阻止水島の運動家から電話がかかってきた。
「あの連中とはあまりつきあわない方がいいぞ」紹介しておいてそういったのは仲間の須山さんだった。
「金がないと女の子が体を売っているんだ。そこまでしてこの国を何処へ持って行こうとしているのかね」
 その人たちの公害闘争というものは一体何であったのだろう。人間の基本的概念を捨てても尚公害問題を重視していたとなると、そのすさまじい闘争心には頭が下がるがどこか間違っているのではないかと疑問符がつくのだった。
体を売ってまで公害を阻止しようとする意味は何であったのだろうと。そうすることが運動家のプロであったのか、今でも考えさせられる問題だった。何冊か買わされた。本を出しすがる言葉に情が移つたのだった。
 また公害を叫んで食っている人たちもたくさんいたのだ。代議士の「この名刺を持参した人は私の昵懇の者であるのでよろしく」と書かれた名刺を公害企業に出して車代を十万単位で受け取る者がいた。その人たちは業界紙の者であった。そんな人たちが横行していた時代でもあった。戦後まだ社会秩序が整備されていなくて様々な種類のたかりが跋扈していたのだ。その人たちに比べて体を売って維持費用を調達し運動する人もいたのだ。それを社会正義と言うには悲しすぎる。人道的な立場で運動しているとしても何か矛盾を感じてしまう。何か裏がありそうだといらぬ勘ぐりをしてしまうのだった。人の命の大切さと地球の未来に思いを馳せているとしたらせこい通俗的な考え方をしていたと言うことになる。まるで神か仏の様だと手を合わせなくてはならなかったことになる。
 今、その人たちのことを思い考えても答えは出てこないのだ。
毎日のようにコンビナートから大砲を撃ったような音が響いてきていた。カメラとビデオカメラを積んだ車に乗ってコンビナートへ出かけるのだ。事故が起こると企業の人たちの車がヘッドライトを点けクラクションを鳴らし放しで猛烈な勢いで走っていた。その日によって違うが社旗をなびかせた新聞社の車がトップ争いをして走ってくる。一番後はいつもNHKの記者が乗ったタクシーだった。小さな事故は毎日のように起こっていた。各新聞社の記者は市役所の記者クラブにいてそこで倉敷市の発表を原稿に起こすのだ。だから殆ど同じ記事になってしまう。特ダネを得ると言うことはほとんどなかった。家人の喫茶に記者が集まっていたのは公害闘争をしていた私がいたからだったのかも知れない。何か新しい情報を手に入れたいという淡い期待を持って。     
 石油会社が原油を流失したときにストロボを焚いて写しそのカメラを保安に取り上げられたたき壊された記者がいた。引火に神経質になっている現場でストロボを焚くと言う行為は記者の意識の低さで笑いものになることだった。工場から流れ出た原油は水島灘を真っ黒な海に変えた。対岸の丸亀、玉野の沖、小豆島まで流れ海を汚染していった。消防艇と漁民の船でオイルフェンスを張り中和剤をまいたがなかなかはかどらなかった。漁民やボランティアはぞうきんで岩にへばりついた油を拭き取るという事に懸命だった。瀬戸内海の魚は市場に出せなかった。油の臭いのする魚を買う消費者はいなかったのだ。その問題は市議会にも取り上げられ、工場側と漁民の話し合いが持たれ市中に入って補償金で解決をさせた。
 工場までデモをしたが警察はデモに参加した一人一人を写真に撮りまくっていた。こちらが警察官をカメラに取るとひどく怒ってカメラを取りフイルムを抜いた。肖像権が認められているのは警察官だけでデモ隊はないことを知った。
 公害は終わっていない。全国の公害の被災者が元気にならない限り終わっていない。中国や開発途上国の公害に手をこまねいて見ている無責任は許されない。多くの被災者を出した日本はその国が被災者を出さないようにアドバイスをする事で日本の公害患者の許しをえなければならない。賠償をしているからいいと言う問題ではない。政府も企業も過ちを償う気持ちがあるなら二度と公害患者を出してはならぬと言うことを肝に銘じるべきなのだ。
 四十年間つぶれることもなく細々と営む喫茶店がここにある。そこには公害を語り継ぐ人がいる。

春の風 3へづく





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